タングラムは中国に起源をもつ古くからある遊びで、正方形を「タン」と呼ばれる7つのパーツ(正方形、平行四辺形、大2つ、中1つ、小2つの二等辺直角三角形)に分割したもので構成される。 遊びの伝統的なルールは簡単だ。7つのタンを平面上に重ねないように配置して、お手本で見た形のプロポーションを保った形を再び作ればよい。
タングラム遊びは、特にすでに正方形に集まったピースを見てしまうと、非常に易しいように思うかもしれないが、普通、初心者では箱から取り出されたピースを正方形に戻すことがすでに難しい。 だが、タングラムは他の多くのパズルとは異なる。ほんのちょっとでも遊んでみると、正方形の巧妙な分割を楽しめるようになる。 こうして、どのように正方形の紙片を切ったり折ったりすることでタングラムができるかを理解する。 タンの作り方を発見してしまうと、辺や角度の間の数多くの関係は明白に思える。 そのおかげで、タングラムで遊んでいると、折り紙のように、素材は簡単であるにも関わらず、正方形のような幾何学的な形を作ることができ、その形においては単一の各ピースの特徴は相殺されている。しかし他方では、各ピースの特徴がもっとはっきりと判るようなあらゆる形を作ることもできる。 その形には、生き生きとして躍動しているかのように見えるほど表現性に豊んだものもある。 また、同じ題材を多くの形態で表すことができるので、物語の説明に使ったり、漫画にしたりもできる。 タングラムの図形の多くに見られる注目すべき特徴は、効果的に説明するよりもずっと人の想像力に訴えるということだ。(実のところそれは目の錯覚による。)
タングラムの図形は、その本質性と有効性によって、「心のパレットは絵筆がもたらしうるものよりも豊かである」という考え方に基づく禅画のように、さまざまな知覚を提供してくれる。 その表現性から、タングラムの図形はシルエットや影絵遊びを思い起こさせる。 タングラムは視覚認識の研究に際立った提言を与え、心理テストのための基礎として使われ得たのである。
ある本で(これは今のところ英語で編集されたものであるが)授業における遊びや数学の大衆化の重要性を強調しているラウズ ボール(Rouse Ball)は、タングラムについてこう書いている。 「これら7つの木片で図形をつくるのは…古くからある最も有名な東洋の遊戯のひとつである。これらのピースを使って、何百種もの男、女、動物、魚、家、船、日用品、幾何学形などの図形を作ることができるが、もたらされる楽しみの種類は数学的な性質のものではないので、ただ言及するに留めることにする。」 しかし今に、タングラムで遊ぶことのある側面と数学をすることとの意外な類似を発見していくことで、そのようなものではないことがわかるだろう。 タングラムを例や隠喩として用いて、何が本当の数学的な活動なのかを説明することを試みていくことにする。
数学はどの段階の学校でも教えられているのに、多くの人はそれが本当は何なのかを認識していない。 有名な著作には過去の数学者の生涯を綴った伝記や秘史がしばしばある。ところが、数学が何かということが説明されることは稀で、おかしなことだ。 実際には、数学を大衆化するのは容易なことではない。やってみないと解らないと考える人もいる。あと言えるのは、多くの人々(ある程度の文化においても)が、数学は自分が何かを付け加える余地のない、結晶化した法則のセットだと信じているということだ。 だが、それは真実ではない。数学はつねに進展し、毎日その多くの応用を目にする事が出来る。 しかし数学は、クレジットカードや音楽用・コンピュータ用のCDのような簡単で一般的な用途のものの実現を可能にしているように、私たちがこれを認識する能力が少ない以上に、私たちの日常の生活の中にもっとずっと入り込んでいる。 この事実は、1988年にブタペストで開催された第6回数学教育国際会議でチェバラード(Chevallard)によって注目が促された。
数学は問題の提示と解決によって進行する。 アインシュタイン(Einstein)は「答えは全て私たちの目の前にある。正しい問いを見つければ十分だ」と言った。 数学的な理論が生じる問題はしばしば実用的なタイプのものである。 また時には、すでに得られている結果の一般化からこれらの問題が生じることもある。 数学内での目的のために発達した理論が、数世紀の後に完全に他の問題に対して本質を得ることはしばしば起こる。
例えば、円錐を平面で切って得られることから円錐曲線と呼ばれる曲線は、恐らく日時計の研究から始まったものだ。それらは紀元前4世紀にプラトンアカデミー(Plato's Academy)の数学者メネイクムス(Menaechmus)によって運用され、立方体の体積を2倍にする問題を解くのに使われている。 そして紀元前3世紀にはユークリッド(Euclid)、アルキメデス(Archimedes)、アポロニウス(Apolonius)によって研究されている。 最後の人物は、より一般的な方法でそれらを求め、楕円(ellipse)、双曲線(hyperbola)、放物線(parabola)と呼んだ。 同じ曲線とその幾何学的な特質は、2000年後にケプラーが太陽の周りを回る惑星の運動の法則を記述するのに使っている。
別の例を挙げれば、つい近年では整数論、これは数学者がかつてからより抽象的で純粋な理論の一つと考えていたものだが、これが電気通信の信頼性と安全性の分野において決定的に寄与した。これをなくしては、宇宙旅行は実現不可能であっただろうし、通信による金融取引は安全ではなかっただろう。それゆえに、それらは発展しなかっただろう。
どのような種類の問題が数学によって研究されるのだろうか。それらの特徴は何れだろうか。 多分スーパーマーケットのレジ係がレジを打つとしたら何が起こるかを考えて、数学は常に唯一の解を与えるものだと考えるのが、最も率直なところではないだろうか。その考えを補強するためにはこう言うかもしれない。「2足す2は4だ!数学は意見ではない!」 私たちはそんなものではない、と言わねばならない。数学においてはタングラムと同じ様に、唯一の解しかない問題や、もっと沢山の解をもつ問題があればその他のもある。
一つの解しか生じないタングラムの問題から始めてみよう。そのことを思い起こしてもらうために、鶴がたった一つの方法でしかできないことを注意しておく。実際に、大きな三角形は胴体と翼に、また小さな三角形は脚に使うしかない。その後の他のタンの可能な置き方はたったひと通りしかない。
もっと多くの解をもつ問題を示すために、タングラムの例に注目しよう。 このような直角二等辺三角形を作るのには二通りのやりかたがある。
古典的な数学においても、複数の解を持つ問題を見かける。ここにその一つを挙げると、与えられた直線に接し、設定された2点を通る円弧はいくつあるか、というものだ。 この問題は少しばかりユークリッド幾何学の知識があれば、定規とコンパスで解くことができる。 幾何学的な構築を一つずつ追ってみよう。
したがって数学者が2つかそれ以上の解を持った問題を研究していたとしても驚くことは無い。実に無限個の解を持つ問題もある。
他の学問分野と同様に、数学においても、いかなる解も許されない問題を見つけることができる。 しかし数学においては、他の領域で起こるのとは似て非なるものであって、その事実はどんな反証をも恐れることなく証明することができる。
時として、問題を解くことが不可能であることは実に明らかだ。 例えば、ユークリッド幾何学の理論から、三角形のどの辺もそれ以外の2辺の長さの合計よりも短いことが立証できるので、任意の3つの線分を選んできた場合、それらが三角形をつくれないということは恐らくありうる。
他の不可能性の状況はそれほど明白ではない。タングラムの例から始めてみよう。7つのタンでは枠が実現できないことは、非常に明らかというわけではない。しかしそれを示すことは簡単だ。鶴の解の唯一性を示すのに用いたのに似た推論を辿れば十分である。2つの大きな三角形は枠の反対の角にだけ置くことができる。従って、正方形は残された2つの角の一方にだけ置く事ができ、平行四辺形は4つ目の角に触れていなければならないのだろうが、この状況では中くらいの三角形のためのスペースがなく、この時点で小さな三角形のことを考えるのは何の助けにもならない。
では、数学について話そう。古典的で最も有名な例の一つは、いわゆる角の三等分問題だ。この問題は紀元前5世紀にはすでに研究されていた。 数学者は定規とコンパスのみを使って、どんな角度でも二等分することは出来ており、更に同じ道具を用いて30度、つまり直角の3分の1の角度を作ることが可能なことが分っていた。 それ故、彼らは定規とコンパスのみを使って角の三等分の問題に数世紀に渡って挑み続けたが、これらの道具によっては誰も成功しなかった。2世紀の後、1837年にピエール ローレント ヴァンツェル(Pierre Laurent Wantzel)は、代数的なプロセスによって、定規とコンパスでは三等分できない角度があることを示した。
いずれにしても、枠の問題や、与えられた任意の角を三等分する問題を解くことが不可能であることは、用いられた道具に依存する。例えば、もし伝統的なタングラムの替わりに、清少納言(10世紀の日本の作家)の知恵の板を使ったならば、枠もまた組むことができるのである。 すでに古代より三等分問題を解くためのさまざまな道具が発明されてきている。これらのうちの一つは、アルキメデスの解法をもとにしたもので、パスカル(Pascal)の三等分器と呼ばれている。
タングラムと数学の比較を続けていくと、数学において分類の問題の研究がまたあることに注目して、これからそれを例証することにする。
正多面体は等しい正多角形の面を持つ立体で、面は各頂点で常に同じ数が集まっている。それらはプラトンが「ティマエウス(Timaeus)」で取り上げたことからプラトン立体とも呼ばれる。無限にある正多角形のことを考えれば、正多面体もまた無限にあると考えることが出来るかも知れなかった。しかしながら、古代ギリシャ人はそれらはたった5つのみであることを見つけ出した。すなわち正四面体(正三角形の4つ面を持つ)、立方体或いは正六面体(正方形の6つの面を持つ)、正八面体(正三角形の8つの面を持つ)、正十二面体(正五角形の12の面を持つ)、最後に正二十面体(正三角形の20の面を持つ)である。
正多面体を分類する問題は、数学で解決された最も古典的な分類の問題の一つだが、他にも数多くある。 最近では1980年頃に分類の問題が解決されている。それは代数的な構造を説明し、有限の単純な群の分類を考えるもので、群論においては整数につて素数を説明するのと同じことを表す。事実、素数の掛け算によって全ての整数を得られるが、これに似て、有限の単純な群の掛け算によって全ての有限な群を得ることができるのである。 この問題を解くために、何世代もの数学者が巻き込まれてきている。この結果を得るのには1世紀以上もかかり、15000ページも費やされたのである!
タングラムでもまた分類の問題が存在する。そのうちの一つが、作成可能な凸図形を分類する問題である。 凸図形は一定の方法で数学的に定義されるが、私たちの興味に鑑みて次のように言うことができる。もし図形がある程度の厚みを持っていたとすれば、凸図形は輪ゴムでくくることができて図形のあらゆる点が包含され、凸でない図形に対しては何か空間ができるのに対して、それらの点だけが含まれることになるだろう。
1942年に二人の中国の数学者、Fu Tsiang WangとChuan-chin Hsiungがタングラムで作ることのできる凸図形を分類した。次の13個、三角形1つと6つ四角形、2つの五角形、そして4つの六角形がある。四角形は正方形、長方形、平行四辺形、等脚台形、それと2つの直角台形である。 1995年には、若いイタリアの教師、シルビオ ジョルダーノ(Silvio Giordano)が更に、タングラムでは上記の四角形だけしかできないことを示した。つまりそれは凸四辺形のことである。 五角形のタングラムの図形については、マーチン ガードナー(Martin Gardner)が1974年に「サイエンティフィックアメリカン(Scientific American)」の「数学の遊戯(Mathematical games)」という連載の中でそれらを分類する問題(この問題は1968年にリングレン(Lindgren)によってすでに考えられていた)を示した後、固有の53個が出てきている。その結果はコンピュータを使って、特別にプログラムを組んで確認されたが、今のところ完全な証明は存在しておらず、それゆえ、このタングラムの問題は未解決(open)である。
さて、未解決の数学の問題に取りかかることにする。今日、数学にはまた未解決な問題もあり、うまくすると常に他のものがあることだろう。数学が進展する時にはまさに、ほかの科学におけるように、新しい未解決の展望がある。何世紀も解決していない問題があることは重要なことだ。これらの問題は、たとえ実用上はほとんど興味の湧かないものに見えたとしても、しばしば新しい便利で重要な研究分野の誕生を決定付けたり、或いは思いがけない応用を提案してくれる。
未解決の問題には中学校の生徒でも理解できるくらい単純に表現されるものもある。そのうちの一つに、1742年に提示された、ゴールドバッハ(Goldbach)の予想がある。彼はドイツの数学者で、オイラーの友人だった。予想は、2より大きな全ての偶数は2つの素数の和として表しうるというものだ。例を挙げれば、4=2+2,6=3+3,8=3+5,10=5+5などである。 だが強力なコンピュータを使ってでさえ、これを無限大まで確認することができないことは明らかであり、また今までのところ誰もこの予想を示すか反例を見つけることができていない。 それは2つの素数の和として表せない偶数が見つかっていないことを意味している。
ところで、これら2つの図形を観察してみよう。一見、タングラムで、ルールを全て守って、つまり7つのピース全てを重ねないように使って、それら両方の図形を得ることは不可能に見える。 一方に脚が無いだけで、それらは同じ人のように見える。不可能のようだが、どちらの図形も実現できる。もしどのように組み上げられているかを見たなら、もはや驚きはない。 これらのような図形は、伝統的なタングラムでは完全に無視されていたが、20世紀初頭に2人の著名なパズル作家、アメリカのサム ロイド(Sam Loyd)とイギリスのエルンスト デュードニー(Ernst Dudney)によって導入された。 論理的には図形の面積は同じはずだ。では、どうして一部欠けているのにも関わらず、最初の人と二番目が全く同じに見え得るということがあるだろうか。その説明はこうだ。両方の図形で、頭、帽子、手は同じピースでできている。胴体の根元の幅は同じだが、最初の人の胴体は3つのピースで構成されていて、二番目は4つのピースだ。最初の人の胴体は赤い帯の分だけ正確に二番目のと異なる。この面積がしたがって脚の面積に等しい。 この理由から。二番目の人は最初の人よりも大きな腹をしている。初めに見たときにはそれに気付いていなかったので、両方の図の存在は矛盾しているように見えたのである。これらの図形の存在がパラドクスを生み出している。
数学においてもまた、パラドクスを生み出す状況があり、それはそれらが一般的な見解に反する結論をもたらすことを意味している。
例えば、ガリレオ(Galileo)自身が次のような数学的な事実に感銘を受けている。 いかなる整数にもその平方があることを知れば、その平方と同じ数だけ整数があるといえる。それにもかかわらず、全ての整数が完全な平方ではないから、平方は整数よりも少なければならないように思えた。ガリレオはこの事実を克服不可能な難題であると考えて、こう書いている。 「これは我々の有限の理知で、無限量のことを話すことから生じる困難である」
1873年、ドイツの数学者ゲオルク カントール(Georg Cantor)は、アリストテレスの時代から存在する、ガリレオ自身が賛同した哲学的議論の大数を主張した。カントールは無限の組みに立ち向かうことができた。彼の用いた方法は次のように例証できる。 このエッシャーの絵の中に騎手と同じ数の馬がいるという事実を、数え上げることをせずに確認するには、それぞれの馬に騎手がいることを観察できれば十分である。従ってこの2つの組みの要素(1つは馬で、1つは騎手)は結合させることができる。 似たように、これらの2つの線分の点を結合させ、この方法で点の組みの膨大さに立ち向かう戦略を考案できる。 図に示した、線分ABの各点Pは線分CDの各点P’と結合できることを言えば、線分ABは短いにも関わらず、線分CDと同じ数の点があると結論付けることができるのである。 これの他のトリックを使って、線分の点と直線の点を結合させることができる。したがって線分は直線と同じ数の点があると結論付ける。
全ての無限の組みが等しいわけではない。それは直線上の点と整数だけ、あるいは有理数(小数の形で書く数)だけとを結合させる方法がないことを言えば十分である。
カントールは、フランスのヘンリ ポアンカレ(Henri Poicare)や師のレオポルド クロネッカー(Leopold Kronecker)といった、彼の時代の著名な数学者から批判されていたが、その彼自身が1899年にリヒャルト デデキント(Richard Dedekind)に宛てた手紙の中で、「分った、でも私は信じてはいない」と書いている。 しかし今日では、彼の命題は基礎的な数学理論である。デビット ヒルベルト(David Hilbert)は20世紀前半の最も重要な数学者の一人だが、彼はかつてこう言った。「誰も我々を、カントールが我々のために手に入れた楽園から追放することはできなかった。」
話の幕を引くに当たって、触れもしなかった数学の側面と領域があることを述べておく必要がある。 例えば、数学は決定論的な問題だけを扱うのではなく、例えば確率論は重要な数学の一部だが、これが賭け引きゲームの研究が始まった16世紀に発達したことを思い出してもらいたい。これは結果が射幸的な状況について扱っており、それは確実さを意味している。 確率論は保険の分野に応用されている。
私たちの目的は、最も最近の数学の成果や数学の全てのさまざまな側面を説明するのではなく、「数学をする」ことの基礎を形成する考えや方法を強調することにあった。